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雲南旅行 8日目

■10/22 
朝起きたら、とうに出かけたはずのみんなの声がする。 
顔も洗わずにドアを出たら、男の子たちが中庭で手持ち無沙汰にしている。あれ?と思ったら、みんな寝坊してバスに乗り遅れたそうだ。 
午後のバスで出発することにしたというので、みんなで朝ご飯を食べにいくことにした。

四方街の近くにある食堂で、米線と嗎嗎(ババ)と呼ばれるパンのようなものを、6人で取り分けて食べた。このパンは、民族衣装を着た女の子が店の表に設置されたコンロで焼いていて、小麦粉と油のなんともいえないいい香りがする。米線は、昆明のものとは違って、しょうゆベースのスープだった。 
食堂には、子供用みたいに小さくて背もたれのない木の椅子がポコポコ置いてあり、長椅子のように見えるものをテーブルにしている。テーブルには赤い粉(たぶん一味唐辛子)と塩と酢が置いてあり、料理そのものは全く辛くない。各自で味を調整して食べる。 

きょうはRさん(もう一人の女性)と白沙に行く約束をしていたが、Rさんは午前中、中国語の学校に通っているので、Rさんが帰ってくるまで新市街を散策することにした。散策といってもスーパーや文房具屋でこまごまとした珍しいものを少し買っただけ。中国の官製封筒らしきものや、ノート、卓球のボール、しゃべる電卓など。 
昼過ぎに宿へ戻ると、男の子たちはトランプをしていて、Rさんがカップラーメンを食べていた。真っ白い顔で、シーフード味だけはおいしいのだと言った。 

3人で新市街を抜け、毛主席のでかい銅像のそばにあるレンタサイクル屋に行く。アリババという名前の店で、15元でママチャリを貸してくれる。ペットボトルの水と白沙への地図もくれた。でも地図は手描きで、信号の数と曲がる場所しかわからない。どれくらいの距離を走るのかも見当がつかなかったが、ママチャリ隊は出発した。 

町はすぐに途切れ、また別の小さな集落を超えると、幹線道路に出た。ここまでは砂利道で振動がひどく、痔になりそうだと思った。 
幹線道路はまっすぐはるか遠くまで伸びていて、左右は草原だった。遠くに山の稜線が、水色に見えていた。あのどこかにチベットがあるのだろうかと思いながら走った。 
次の信号なんていつまで走っても見えなかった。本当にこの道で合っているのか不安だったが、確かめるすべもない。ごくたまに、右や左に折れるあぜ道があって、さらにごくたまに、ラウンドアバウトがあった。 
途中、あぜ道に折れて、地面に座って水をのんだ。トラックばかり通った。 
信号を3つ過ぎたあたりで、ずっと先に「白沙」と記された道路標識が見えた。私にしか見えなかったので、私だけ興奮して安心した。その先に、いきなり学校のような建物が現れて、門の漢字を読んでみると、観光業専門の大学のようだった。 

最終的には地図通り、4つ目の信号で左に折れると白沙だった。自分たちが白沙の近くにいることはわかっていたが、集落の入り口が見つからず、周りをぐるぐると回った。人に道を聞き、やっと白沙の集落に着いた。城門のようなところに自転車を停めて、散策することにする。 

宿でいっしょだったA君から、自宅に招いてくれるおばあさんがいる、と聞いていたが、すぐその人に出会って、拍子抜けした。せっかくなので家に呼んでもらい、庭で取れたらしい梨を食べさせてもらった。家には旅行者がメッセージを残すノートがあり、A君の書き込んだメッセージもあった。私たちも当たり障りのないことを書いた。率直にお礼を要求されたので、10元ぐらい渡した。 
白沙で見るべきなのは壁画らしいので、おばあさんにその壁画まで連れて行ってもらい、別れた。壁画はぐるりと建物で囲まれていて、楽団が民族音楽を演奏していた。壁画の歴史的価値はよくわからなかったが、はあとかふーんとか言った。 
出口につながる通路には、左右に工芸品を売るスタンドが並んでいた。気の遠くなるほど細かい刺繍をしている女性がいて、じっと見ていたら、みやげ物を勧められそうになったので顔をそむけた。毛沢東グッズも売っていたが、この場所とは関係ないので、我慢した。 

外に出て適当な方向に歩いていたら、ドクター・ホーの診療所を見つけた。というか、一目でそれと分かる人が玄関先に立っていた。Rさんはずっと彼に会いたいと思っていたらしく、あまりにあっさり出くわしたのでぽかんとしていた。 
診療所は白一色で、生薬の粉が床にぎっしり並んでいた。ドクターホーは流暢に英語を話した。薬をもらって帰りたいと言ったら、しわしわの手で手首に触れた。なんだか、それだけで何か治りそうな感じがした。薬は水にとかして飲めとか、If it works, let me know. I will send it to youとか言われた。お代はいくらですかと聞いたら、お気持ち次第ですと言われたので、自分で妥当だと思った額を渡した。いくらだったかは覚えていない。

診療所を出ると、もう5時過ぎだったので、麗江に戻ることにした。 

帰りは曲がる場所を間違えたらしく、農道のような砂利道をずっと走る羽目になった。迷ったかなと不安だったが、先に大きな道が見えてきて、さっき見た観光大学のところにいきなり出た。麗江の新市街に戻ってからも迷って、毛主席の広場に戻ったのが6時過ぎだった。 

宿に帰り着いたら、A君だけ残っていた。夕飯がまだだというので、朝と同じ食堂に行く。 
A君は明日麗江を離れるので、めちゃくちゃな中国語で食堂の女の子たちにお別れの挨拶をしていた。女の子たちはみんなA君のことが好きで、何かにつけてちょっかいを出しにきた。キノコ入りの炒め物と、ベーコンのような肉を炊き込んだ土鍋ごはん、空芯菜の炒め物を食べた。切なくなるぐらいおいしかった。 

夕食のあとは、一人で四方街に残って、三脚を立てて写真を撮ってから帰った。 

宿に戻ったら、大理から移ってきた日本人の男の人がいた。いわくありげだったので話を聞いていると、宿で揉めごとがあったので避難してきたのだという。大理に現地人(白族)の彼女を作ったとかで、「自分は日本ではもてたことがないが、中国に来てもてるようになった」というようなことをまじめな顔で語りだし、よくわからないけど仲良くなれそうにない、と感じた。 

11時ごろ部屋に戻り、明日帰国するMKちゃんのパッキングを見ながら、今回の旅についてすこし話す。MKちゃんは明日、帰路につく前に昆明駅前に野生児を訪ねてみると言った。わたしは、もし野生児に会えたら私からもよろしく伝えてほしいと言った。12時過ぎに寝る。