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雲南旅行 10日目(終)

■10/24 
昨日にひきつづき朝5時に起きる。私がこの宿を離れる番だった。 
廊下も階段も真っ暗だったが、電気をつけるわけにもいかない。そもそもスイッチの場所がわからなかった。中庭からのすこしの灯りを頼りに、階下に下りて顔を洗い、歯を磨いた。 

ゆうべRさんに「明日は起こさないように帰ります。いろいろありがとう」と伝えて、目覚ましも枕の下に敷いて寝たのだが、Rさんは自ら5時すぎに目覚ましをかけて起きてきてくれた。 

パッキングは前日にほとんど完了していたので、上の方に洗面道具を突っ込んだらもう準備が整ってしまった。Rさんにせわしなく別れの挨拶をして、中庭に出ると、宿のおばさんが「タクシーが来ているよ」と教えてくれた。宿のおばさんは、「サヨナラ、再見」と寂しそうに言った。私は、「再見、再見」と言ってタクシーに乗り込んだ。ドライバーさんがトランクを開けてくれたが、バックパック1つなのでそのまま持って乗った。 
タクシーは、麗江の町並みをあっという間に抜け、夜明け前の真っ暗な道を行く。 
麗江空港はどこにあるのか知らなかった。どの方角に向かって走っているのかもわからなかった。 


昆明に戻ったら北京行きの飛行機が出るまでに数時間余裕があるのがわかっていた。 
駅前に行けば野生児に会えるかもしれない、昨日MKちゃんが会えたとは限らないし、と思ったが、行きたくないような気もした。 
行って会えば、お別れの挨拶をしなくてはいけないから。 
わたしは忙しさの中でだんだんこの日々を思い出さなくなるだろう。 
「また来ます」と言ったのは嘘じゃなかったけど、結果的に嘘になるかもしれない。 


そのように考えていたら、ドライバーさんが「60元、通行税で必要です」という旨のことを(筆談だったか、英語だったか?)言ってきたので、言われた通り渡す。日本の高速道路みたいな料金所があった。 
ほどなくして、遠くの方にぼんやりと灯りが見えてきたと思ったら、「机場(空港)」という標識が近づいてきた。空港は新しかったがやはりハリボテっぽかった。ドライバーさんに礼を言い空港の建物に入ると、すでに待合室には十数人の中国人がいた。チェックインカウンターは1カ所だけ開いていて、待つ人もいなかったのでチェックインの手続きを済ませて待合室に戻る。土産物屋や売店は開店前だった。 
昨日スーパーで買ったクッキーのようなものを朝食代わりに食べながら、本を読んで搭乗時刻を待つ。 

機内ではオレンジジュースを受け取ったことだけ覚えている。あっという間に昆明空港に着いた。 

コインロッカーを探していると、それと思しきピクトグラムが矢印とともに掲げられているのだけど、その矢印どおりに進んだら元の場所に戻ってしまった。しかたがないので中国語会話帳を開き、「荷物を預ける」という表現を調べて書き写す(ノートには「寄存一下 行李」と書いてある。「一下」は「ちょっと」でしょうか)。空港内の掃除をしているおじさんにそれを見せると、地下にあるというしぐさをして見せてくれる。「↓」の矢印は、直進ではなく階段を下りろということだったのか・・・ 
地下に下りたらすぐにカウンターが見つかった。5元か10元で24時間だった気がする。カメラはもういいだろうと思い、バックパックに入れて預ける。 

空港から外に出ると、駐車場の先にバス乗り場が見えた。1元で市街まで出られる。ここまで旅してくると、初日にわざわざタクシーで市街に出たのがバカバカしいように思えたが、旅行ってそんなものだ。 

郊外の広告看板を眺めながらバスに揺られ、終点で下車した。大きなホテルがいくつかある街道沿いで、昆明駅までは遠くないだろうと思ったが、自分がどこにいるのかいまいちわからなかった。ホテルのエントランスを掃除しているおじさんに「昆明」と書いて見せると、指差して教えてくれたが、迷惑そうな表情だった。 

おじさんに教えられた方向に歩いていくと、野生児に西山森林公園へ連れて行ってもらったときに使ったバス停が見えてきた。そのまま直進して左に折れれば昆明駅が見える。 

駅前はあいかわらずゴミゴミしていて、縁石の下には汚泥がたまっていたけど、なぜか、帰ってきたなあという気分になってうれしかった。野生児には相変わらず、会いたいようで会いたくなかった。 

親切にしてもらった警察の詰所の裏を過ぎ、駅前に出た。鉄道警察のブースが見える。1つ目、いない。2つ目にもいなかった。ちょっと距離をおいてじっと見ていたが、どこかから戻ってくる気配もない。非番だろうか。 
駅前はひととおり探して、駅の裏にある長距離バスターミナルも見に行ったがいなかった。自分でもがっかりしたのか安心したのかわからなかったが、体の力が抜けたようだった。警察の詰所に行けば、私たちを覚えている人が誰かいるかもしれないと思ったが、その気力もなかった。 


昆明にもう用はないが、人民元がまだ余っていた。野生児が吸っていた「雲煙」という煙草を1カートン買い、コンビニのような店でM&Msを買った。ぶらぶらと歩いて時間をつぶし、空港行きのバスに乗った。

雲南旅行 9日目

■10/23 
朝5時に一度起き、MKちゃんが空港行きのタクシーに乗るのを見届けて、また寝る。 
次に目を覚ましたら9時で、廊下に出るとRさんが学校へ行く支度をしていた。今晩はひとりなので、ドミトリーに移らせてもらうことにする。荷物をまとめて、2階の奥の部屋へ行くと、A君が起きてきた。パッキングをしたらすぐに大理へ発つというので、バスターミナルまで送っていくことにする。 
昨晩も食事をした食堂の前を通りかかり、外に面したコンロで調理をしている女の子にA君が手を振ると、女の子は、本当に行っちゃうのねという表情で手を振った。私がまた戻ってくるらしいことは、軽装だったのでわかったようだ。 
古城地区を出たところで、A君が突然「最後にどうしても食べておきたいものがあるんだけど、お腹すいてる?」と聞いてきた。うん、すいてる、と答えると、毛沢東のそば(ノートにはこう書いてあるが、新市街のもっとはずれだった気がする)の食堂に足を向けた。A君は麗江に長く滞在していたので、この食堂でも顔パスで、頼んでもいないのに食事が出てきた。といってもメニューは小龍包と米線だけらしく、単品でどちらかを頼むか、セットで頼むかが唯一の違いのようだった。小龍包は皮が厚く、どちらかというとミニ肉まんといった趣だったが、たしかに、この町を離れる前に食べておきたいと思うのも無理からぬ味だった。各自に、4つ入りの蒸し籠が3段提供されて、私は3段とも食べると米線が食べられなくなりそうだったので、のこりの1段はA君に食べてもらった。道路には洗い桶が出してあり、店のおばちゃんが暇を見つけて蒸し籠を洗っていた。 
A君は、どこかほかの町で一緒に行動していた欧米人が、no cleanとか言ってこういう町の食堂に入りたがらず、むかついた、と話していた。私も昆明ではお腹をこわすのが怖くて屋台の食事を避けていたが、そんなことはすっかり忘れてA君に同調し、これだから欧米人は、などと悪態をついた。 
食事を終えてバスターミナルに行くと、大理行きのバスは2分後と1時間後にある、2分後のものに乗るなら急いで、と言われていた。A君は一瞬迷っていたが、やっぱりこのバスで行くね、と私に言った。私はそのとき、1時間後のバスにしてくれるといいなと思っていた自分に気がついて、ちょっと驚いた。握手をした後、メール書くね、と言い残して、A君はバスに向かって走っていった。 

まっすぐ宿に戻ったら正午だった。誰もいないので日記を書いたり荷物の整理をしたりして、Rさんが学校から帰ってくるのを待った。Rさんは帰ってくるなり、ああもうめんどくさい、テープで自習しなきゃいけないんだって、と言った。 
私は明日の早朝に麗江を出るので、二人で川沿いの眺めのいいカフェに行くことにした。レモネードを飲みながら(Rさんはそこで昼食を食べていた気がするが、何を頼んだかは覚えていない)、Rさんが世界一周したときの話を聞いた。8年前の話だ、というので、Rさん一体いくつなの、と聞いたら、私より9つも年上だった。2年ぐらい会社に勤めては、辞めて半年ぐらい旅に出て、また働いて旅に出て、という生活をしているといった。
Rさんは大阪で恋人と暮らしていると聞いていたので、半年も留守にして怒られない、と訊いたら、半年ぐらいで怒られたらつきあってられないよ、という答えが返ってきた。そんなもんかな、と思った。umpちゃんは恋人いないの、と訊かれたので、いないと答えると、それなら、2年ぐらい旅に出ちゃえばいいのに、と言われた。何と答えていいかわからなかったので口ごもっていたら、日本に何か心残りがあるんだね、と勝手に結論を出されてしまった。その人とはうまくいきそうなの?とか、一緒に旅行できそうな人?とか訊かれたので、全然わからない、そうであるといいが、と答えた。 
Rさんの話で覚えているのは、中米では「チーナ、チーナ(中国人)」と言われ続けてうんざりしていたが、南米に入ったらそんなことを言ってくる人はおらずうれしかった、という話と、南アフリカで勝手がわからず治安の悪い地区に宿を取ってしまい、歩行者用の信号では絶対に立ち止まるな、棒持って襲ってくるぞ、と周囲の人にさんざん注意されたという話のふたつ。Rさんは、特定の国に対して好悪の感情を持たない人のようで、安心して話を聞いていられた。 

丘は眺めがいいから、一度上ってみたらいいよ、と言われたので、Rさんと別れてひとりで坂道を上った。ひどく息切れしたが、瓦葺きの屋根がびっしりと並ぶ古城地区全体を見渡すことができた。高知城天守閣からの眺めを思い出した。 
丘には土産物屋が多くあり、何軒かのぞいたが割高な気がしたので、四方街に戻った。旅行者で込み合っている銀製品の店があったので、細工をした銀の箸の値段をたずねたら、坂の上の店よりもずっと安かった(210元)。すべての商品は銀の重さで値段が決まっているようなので、値切ることはできないだろうと思ったが、「2双(2膳)=400元」とノートに書いて、「ハオマ?(いいですか?)」と言ってみたらあっさり負かった。これを母と祖母へのお土産に決める。 

サンダル履きで足が疲れたので、一度宿に戻って昼寝した。夕方に新市街に出て、市場で白×赤のスニーカーと、ビール瓶を模した爪切りを買う。どぎつい色の毛糸がたくさん並んでいて、欲しくなったが我慢した。 
スーパーに寄ったら、大熊猫(パンダ)印のコンデンスミルクを発見し、コンデンスミルクなんて全然好きじゃないけど、缶が欲しかったので買う。重たい。 
宿に戻ったら、部屋にはRさんしかいなかった。コンデンスミルクを見せびらかしたら、私もあした買うと言っていた。パッキングをしていたら、7時過ぎに、昨日の大理男が食事に行きませんかと誘いにきたので、3人で夕飯を食べにいく。いつもの食堂で、焼きそばのようなものと、スープと、昨日と同じ土鍋ごはんを頼む。ただで出てくるきゅうりの漬け物がおいしい。男性がまた妙な話(と書いてある。内容は覚えていない)をするので、イライラする。 

宿に戻ったら、麗江に住んでいる日本人のおじさん(Rさんが通っている学校を作った人らしい)が遊びにきていた。最後の夜を、あの大理男との語らいに費やすのかと思ってどんよりしていた私は、喜んだ。 
宿のおかみさんに宿賃を払いにいったり、空港までのタクシーを手配したりしていたので全部は聞けなかったが、おじさんはテレビ関係の仕事をしていたが、思うところあって職を辞し、大陸を横断してヨーロッパまで行ってから、一番居心地のよかった麗江に住み着いたということだった。すべてがそうあっさりと進んだわけではないだろうが、別段苦労したわけでもないという口ぶりだった。おじさんの話がタイに移ったとき、Rさんが、少女売春で有名なタイの町(名前は忘れた)に行ったとき、10歳ぐらいの女の子を連れて歩いている欧米人の中年男性がわんさかいて胸が悪くなったという話をしていた。大理男は、そうなんですかあという間の抜けた相槌を打ってその話を聞いていて、私も胸が悪くなりそうだった。とにかく私はこのおじさんがけっこう好きだった。もう話を聞くこともできないと思うと残念だった。 

11時頃、お湯が出ることを確認してからシャワーを浴びた。12時頃、RさんにトイレットペーパーとTシャツをあげて寝た。

雲南旅行 8日目

■10/22 
朝起きたら、とうに出かけたはずのみんなの声がする。 
顔も洗わずにドアを出たら、男の子たちが中庭で手持ち無沙汰にしている。あれ?と思ったら、みんな寝坊してバスに乗り遅れたそうだ。 
午後のバスで出発することにしたというので、みんなで朝ご飯を食べにいくことにした。

四方街の近くにある食堂で、米線と嗎嗎(ババ)と呼ばれるパンのようなものを、6人で取り分けて食べた。このパンは、民族衣装を着た女の子が店の表に設置されたコンロで焼いていて、小麦粉と油のなんともいえないいい香りがする。米線は、昆明のものとは違って、しょうゆベースのスープだった。 
食堂には、子供用みたいに小さくて背もたれのない木の椅子がポコポコ置いてあり、長椅子のように見えるものをテーブルにしている。テーブルには赤い粉(たぶん一味唐辛子)と塩と酢が置いてあり、料理そのものは全く辛くない。各自で味を調整して食べる。 

きょうはRさん(もう一人の女性)と白沙に行く約束をしていたが、Rさんは午前中、中国語の学校に通っているので、Rさんが帰ってくるまで新市街を散策することにした。散策といってもスーパーや文房具屋でこまごまとした珍しいものを少し買っただけ。中国の官製封筒らしきものや、ノート、卓球のボール、しゃべる電卓など。 
昼過ぎに宿へ戻ると、男の子たちはトランプをしていて、Rさんがカップラーメンを食べていた。真っ白い顔で、シーフード味だけはおいしいのだと言った。 

3人で新市街を抜け、毛主席のでかい銅像のそばにあるレンタサイクル屋に行く。アリババという名前の店で、15元でママチャリを貸してくれる。ペットボトルの水と白沙への地図もくれた。でも地図は手描きで、信号の数と曲がる場所しかわからない。どれくらいの距離を走るのかも見当がつかなかったが、ママチャリ隊は出発した。 

町はすぐに途切れ、また別の小さな集落を超えると、幹線道路に出た。ここまでは砂利道で振動がひどく、痔になりそうだと思った。 
幹線道路はまっすぐはるか遠くまで伸びていて、左右は草原だった。遠くに山の稜線が、水色に見えていた。あのどこかにチベットがあるのだろうかと思いながら走った。 
次の信号なんていつまで走っても見えなかった。本当にこの道で合っているのか不安だったが、確かめるすべもない。ごくたまに、右や左に折れるあぜ道があって、さらにごくたまに、ラウンドアバウトがあった。 
途中、あぜ道に折れて、地面に座って水をのんだ。トラックばかり通った。 
信号を3つ過ぎたあたりで、ずっと先に「白沙」と記された道路標識が見えた。私にしか見えなかったので、私だけ興奮して安心した。その先に、いきなり学校のような建物が現れて、門の漢字を読んでみると、観光業専門の大学のようだった。 

最終的には地図通り、4つ目の信号で左に折れると白沙だった。自分たちが白沙の近くにいることはわかっていたが、集落の入り口が見つからず、周りをぐるぐると回った。人に道を聞き、やっと白沙の集落に着いた。城門のようなところに自転車を停めて、散策することにする。 

宿でいっしょだったA君から、自宅に招いてくれるおばあさんがいる、と聞いていたが、すぐその人に出会って、拍子抜けした。せっかくなので家に呼んでもらい、庭で取れたらしい梨を食べさせてもらった。家には旅行者がメッセージを残すノートがあり、A君の書き込んだメッセージもあった。私たちも当たり障りのないことを書いた。率直にお礼を要求されたので、10元ぐらい渡した。 
白沙で見るべきなのは壁画らしいので、おばあさんにその壁画まで連れて行ってもらい、別れた。壁画はぐるりと建物で囲まれていて、楽団が民族音楽を演奏していた。壁画の歴史的価値はよくわからなかったが、はあとかふーんとか言った。 
出口につながる通路には、左右に工芸品を売るスタンドが並んでいた。気の遠くなるほど細かい刺繍をしている女性がいて、じっと見ていたら、みやげ物を勧められそうになったので顔をそむけた。毛沢東グッズも売っていたが、この場所とは関係ないので、我慢した。 

外に出て適当な方向に歩いていたら、ドクター・ホーの診療所を見つけた。というか、一目でそれと分かる人が玄関先に立っていた。Rさんはずっと彼に会いたいと思っていたらしく、あまりにあっさり出くわしたのでぽかんとしていた。 
診療所は白一色で、生薬の粉が床にぎっしり並んでいた。ドクターホーは流暢に英語を話した。薬をもらって帰りたいと言ったら、しわしわの手で手首に触れた。なんだか、それだけで何か治りそうな感じがした。薬は水にとかして飲めとか、If it works, let me know. I will send it to youとか言われた。お代はいくらですかと聞いたら、お気持ち次第ですと言われたので、自分で妥当だと思った額を渡した。いくらだったかは覚えていない。

診療所を出ると、もう5時過ぎだったので、麗江に戻ることにした。 

帰りは曲がる場所を間違えたらしく、農道のような砂利道をずっと走る羽目になった。迷ったかなと不安だったが、先に大きな道が見えてきて、さっき見た観光大学のところにいきなり出た。麗江の新市街に戻ってからも迷って、毛主席の広場に戻ったのが6時過ぎだった。 

宿に帰り着いたら、A君だけ残っていた。夕飯がまだだというので、朝と同じ食堂に行く。 
A君は明日麗江を離れるので、めちゃくちゃな中国語で食堂の女の子たちにお別れの挨拶をしていた。女の子たちはみんなA君のことが好きで、何かにつけてちょっかいを出しにきた。キノコ入りの炒め物と、ベーコンのような肉を炊き込んだ土鍋ごはん、空芯菜の炒め物を食べた。切なくなるぐらいおいしかった。 

夕食のあとは、一人で四方街に残って、三脚を立てて写真を撮ってから帰った。 

宿に戻ったら、大理から移ってきた日本人の男の人がいた。いわくありげだったので話を聞いていると、宿で揉めごとがあったので避難してきたのだという。大理に現地人(白族)の彼女を作ったとかで、「自分は日本ではもてたことがないが、中国に来てもてるようになった」というようなことをまじめな顔で語りだし、よくわからないけど仲良くなれそうにない、と感じた。 

11時ごろ部屋に戻り、明日帰国するMKちゃんのパッキングを見ながら、今回の旅についてすこし話す。MKちゃんは明日、帰路につく前に昆明駅前に野生児を訪ねてみると言った。わたしは、もし野生児に会えたら私からもよろしく伝えてほしいと言った。12時過ぎに寝る。

雲南旅行 7日目

■10/21 
朝、きのうのVCD屋に行く。藏族(チベット族)の首飾りとブレスレット、ぶんぶん振り回してお祈りに使うデンデン太鼓みたいなものをもらった。日本からお礼状を送りますと言ったら喜んでくれた。 
VCD屋のあるじに再度バスターミナルの場所を聞いたら、きのう携帯電話屋で聞いた通り、町外れに移転しているようで、1路のバスに乗っていけと言われた。 
ホテルに戻り、荷物をまとめてチェックアウトしようとしていたらお腹が痛くなった。ロビーにはお手洗いがなさそうだったので、さっきまでいた自分たちの部屋に走って戻ったら、もう掃除の人が入っていた。色の浅黒い、にこやかな女性で、私より年下に見えた。日本語で「いいですか?」と言いながら浴室を指差したら、笑顔でうんうんと頷いてくれたので、トイレを借りてから、またロビーに戻った。 

1路のバスに乗ると、終点がバスターミナルだった。10時45分ごろだったが、12時のバスの券が買えた。チケットカウンターの脇が待合室になっていて、プラスチックの近代的なベンチが並んでいるのだが、ものすごく寒く、じっとしていると手足が痺れてくるようだった。近くに喫茶店とか、それらしき店はないかと見回してみるも、飲み物を売るスタンドぐらいしかない。仕方なく寒い待合室に戻り、新聞を読んでいたら、もうバスに乗り込めることが分かった。 
バスの後部にバックパックを積み入れてもらい、荷物係のおじさんの写真を撮る。そしたらおじさんも私たちふたりの写真を撮ってくれた。逆光だった。 
座席に座ると、前の座席との間がすごくせまい。乗客は私たちをのぞいて全員中国人のようだった。ものを食べる人、眠る人、しゃべる人がいた。 

正確な場所はよく分からないが、たぶん虎跳峡を超えたあたりで一度トイレ休憩があった。私はただ脚を伸ばしたくてバスから降りた。私の後ろの座席に座っていたウィンドブレーカー姿の中国人は英語を解したので少し話した。彼は北京から旅行に来て、香格里拉で高山病になったという。北京はあまりに大きく、人もあまりに多いので、おすすめしない、というようなことを言っていた。そのとおりなのだろうと思った。 

再びバスに乗り込むと、北京の人がざくろを半分に割って、私たちにくれた。私が知っているよりも、果肉の色は薄く、ほとんど透明だったが、とても甘くて、蜜みたいだなと思った。 
麗江のバスターミナルに着いたのは、午後まだ早いうちだったと思う。雲南では宿の客引きというものにまだ遭遇していなかったが、まだバスを降りもしないうちから何やらつかまりそうな気配がしていた。バスを降り、バックパックを受け取って出口へ向かうと、その間に宿の写真を持った客引きが何人かいた。一人しつこい中年女性の客引きがいて、「私が娘たちとやっている宿だ」と見え透いた嘘を言うのでとりあえず逃げた。そのあと声をかけてきた10代ぐらいの女の子も客引きだったが、客引きにしてはずいぶん控えめで、美人だし、その宿に泊まろうということになった。宿までのタクシー代も彼女が払った。 
宿は麗江の旧市街、古城にあり、周囲の道幅が狭い。宿の目の前まで車で行くのが難儀なのか、途中で降りて歩くことになった。 

徒歩で宿に向かっていると、私たちの前を歩いていた宿の女の子に中国語で話しかけてきた日本人がいた。これから向かう宿に泊まっているそうで、Y君という名前だった。同宿の日本人みんなで、その日の夕食をとることになっていると教えてくれたので、まぜてもらうことにした。 

宿に着いて話を聞いてみると、Y君はMKちゃんの住んでいる札幌のマンションの近くの飲み屋で働いていたことがわかった。中国へは、福岡から韓国を経由して陸路で入り、大連で3ヶ月料理の修業をするうちに、中国語を身につけたのだという。旅人特有の精悍さがあった。 
部屋はドミトリーでもいいと思ったが、風邪をひいている人が多いと聞いて、二人部屋をとることにする。 

宿の中庭で話しているうちに、ほかの泊まり客も集まってきた。 

ギターをかついで旅している人 
これから香格里拉へ向かう予定だという人 
痔を病んでいてみんなにからかわれている人 
旅行会社を辞めて旅に出たのだという人 
翻訳の仕事をしていたという人(私たちが来るまでは唯一の女性客) 

がいた。 

ギターの人は風邪があまりよくないらしく、みんなに早く寝ろと言われていたが、「自分の彼女がほかの男に犯されたらその男をボコるか否か」という話をずっとしていた。何かあった人か、何かあった人だと思われたい人か、どちらかだろうと思った。 

この宿で風邪が流行ったせいで、みんな虎跳峡に行かれなくなって、沈没しているらしい。 

夜になると寒いので、夕食を中庭でとったあとはソファとテレビのある部屋に移動して、ウミガメのスープの問題を出したり、ビールを飲んで当たりの王冠を集めたり、ひまわりの種を食べたり、それまでに旅した国の話をしたりして楽しくしていた。 

明日こそはみんな虎跳峡に行くらしいので、Y君のアドレスをもらってから、寝る。

雲南旅行 6日目

■10/20 
MKちゃんが先に起きて、チケットのキャンセルが出たかどうか、航空会社に聞きに行った。無事に希望の日時でチケットが取れたらしい。 
朝、郵便局に行って、日本やいろんな国の友達に手紙を出す。朝方は冬のように寒く、肉まんを蒸す湯気が歩道を覆い尽くすほどにものすごい。 
納帕海というが海ではなく草原のような場所が見どころとして歩き方に載っているので、行ってみようということになる。 
朝、ホテルのフロントで行き方を訊いたら、路線バスの運転手に交渉するか、タクシーを使えと言われる。ホテルの前で2路のバスの運転手に「ナパハイ?」と言ってみるが首を横に振られたので、タクシーをつかまえる。珍しく女性ドライバーで、日やけした丸顔の、感じの良い人だった。 
納帕海に行ってくれと伝えると、春は高原植物が花を咲かせて美しいが、この時期は「不美」だと書いて見せてきたが、美しいものは花ばかりでもなかろうと、かまわず行ってもらう。 
20分ほど走ると納帕海に着く。タクシーのドライバーも案内がてら納帕海の中に入ってきてくれた。 
肉眼で見えるかぎり草原で、遠くには山がかすんで見える。空がとても美しい。チベット仏教のものか、ストゥーパ(仏塔)がいくつか建っていて、古いものらしいがペンキで水色に塗られている。 
お金を払うと馬に乗って草原を散歩できるようで、どうですか?と勧められたが、MKちゃんとわたしは同じときにイギリスで馬に乗り、怖い思いをしている仲間なので「我們不愛馬」とノートに書くと、「ウォーメン、プーアイ、マー?」と声を出しながら読み、笑いながら「あらそうなの」とあっさりあきらめた。 
日差しがとても強く、ドライバーの女性は「日に焼けるから、車に戻っています」というような身振りをして駐車場のほうへ戻っていった。わたしたちは草原をさまよってみることにして、しばらく歩いて振り返ると入り口がとても遠くに見える。海で泳いでいて、気付くと岸からだいぶ離れてしまっている、あのときの感覚に似ていて、そういう意味では海だなと思った。 
入り口付近からはよく見えなかったが、しばらく歩いていくと、草原のちょうど真ん中あたりに「納帕海」と記された石碑のようなものがこちらを向いて建っているのが見える。あの石碑の裏には何が書いてあるのか?と気になって、さらに歩いて石碑の裏に回ってみたが、何も書いていないのっぺらぼうだった。 
足元は草でふかふかとやわらかくていい気分だが、前日雨が降ったのか、夜露がおりるのかわからないけど、ぬかるんでいる部分もある。近くや遠くに、馬やロバのような動物がぼーっとたたずんでいる。 
1時間ほど納帕海にいただろうか、駐車場に戻ってドライバーの女性と合流する。当初は納帕海と町を往復するだけのつもりだったので40元という約束だったが、香格里拉のまわりには湖や温泉地など他にも見るところがあるよ、という話だったので、1日で230元(250元からまけてもらった)で案内してもらうことにする。 
いちど町に戻る途中で、ドライバーさんが商店に立ちより、花巻(あんのない肉まん)をいくつか買って戻ってきた。「家に帰って、ごはんを食べる」というようなことを言っているので、「どうぞどうぞ」「私たちもその間にお昼を食べよう」などと言っていたら彼女の家に着いて、「上がってください」と促された。ああ、「よかったらお昼をうちで食べて!」と言っていたのか、とそのときやっと気付いて、また図々しくもご相伴にあずかることにする。 
彼女の家は立派な門のある大きな一軒家で、窓が多く、明るい。家の中をひととおり案内してもらう。ベッドルームまで見せてくれた。屋上には大きなざるにひまわりの種が干してあり、私たちにもどっさりくれる。 
昼食には、牛(おそらく)の内臓とキノコを唐辛子で煮込んだシチューのようなものとさっき買った花巻、バター茶をごちそうになった。バター茶はMKちゃんの口にはあまりあわなかったようだ。私もとくにおいしいとは思わなかったが、飲み干すとどんどん注いでくれる。 
途中、彼女と同じぐらいの歳の男性が帰ってきたので、旦那さんかな?と思っていると、弁解するように「あれは私の夫ではなく、弟です」とわざわざ書いて見せてきてかわいらしかった。兄弟がいるなんてめずらしいな、このあたりはやっぱり少数民族が多いからかな、と思った。彼女の顔立ちも漢民族らしくはないので、おそらくチベット族の人だろう。 
話をきいているうちに、この家にはドライバーさん夫婦とその子供、そして彼女の弟がいっしょに暮らしているらしいことがわかった。子供は男の子だそうだ。 
それにしても調度品や電化製品がすべて新しく、暮らしは豊かそうだった。 

午後は弟が運転を代わり、まず湖に向かう。属都湖という名前で、入場券を買ったらその半券が絵はがきになっていた。自然保護区のような感じの場所で、水はきれいだけど特に何もないし人も少ない。すぐに退屈して戻る。湖の駐車場を出るときに、私たちの車を追いかけてくるおじさんがいるので、何か届けに来てくれたのかな?と思って「謝々」と言って受け取ろうとしたら、駐車場の代金を請求されているのであった。払って駐車場を出る。 
湖のあとは天生橋(温泉地)へ向かってもらう。午前中にお姉さんも言っていたとおり、道が悪く(舗装されていない)、時間がかかった。 
天生橋は湯治場のようなところらしく、露天風呂のような、プールのような温泉の脇に客室がいくつかくっついている。イスラエル人の年配のツアー客が十数人いるほかは、誰もいない。温泉のはじにあるあずまやのような建物や、バーらしき施設などは改装工事をしていた。 
町への帰り道に、次の日も観光するなら自分のタクシーを使ってくれ、と弟が言ってきたが、翌日に麗江へ行くことになっているのでそう言うと、「虎跳峡を経由して麗江まで行ってあげる」と言う。でも日数もないし麗江にはやく着きたかったので、断る。 

ホテルの前でおろしてもらって、弟に名刺をもらって別れ、部屋に荷物を置いてから、またCD屋を冷やかしに行く。香格里拉の初日にテレビで見た革命現代京劇のVCDがないかな、と思って何軒かまわったが見つからない。ホテルに近い、小さいCD屋で別の現代京劇のVCDを買おうとしたら、店の奥で店主とだべっていた男性(向かいの洋服屋の店主らしい)も一緒になって興味津々で話しかけてくれたので、私たちもストーブのそばに座り込んで筆談でたくさん話す。この地方の民族音楽のCDをおまけにもらった。 
京劇が好きなの?と訊かれて、2日前にテレビで見ただけだとは言えず、現代京劇に興味があります、探している作品(「智取威虎山」)があるけど見つからない、と言うと、店主が、「この店には智取威虎山はないけど、住所を教えてくれれば、探して日本まで送ってあげる」と言い出す。さすがに悪いので、「送ってもらったら高いし、けっこうです」と言うと「船便で送るから大丈夫」と言うし、送ってくれるならお金を払っていきます、と言っても受け取ってくれない。 
夜も更けてきたので「そろそろ帰ります、ありがとう」と言ったら「この町に来た記念に贈り物をしたいから、また明日来て」と言われたので、また明日来ることにする。 
スーパーでカップ麺を買って帰る。部屋に戻ってから箸がないことに気付いて、フロントに聞いてみても箸はないというので、仕方がないのでボールペンか何かで食べるか、と観念してふたをあけたら、折りたたみ式のフォークがはいっていた。

雲南旅行 5日目

■10/19 
昼ごろ起きて、きのう野生児のお母さんからもらった梨を食べる。 
北京の搭乗ゲートで没収されてしまったためにナイフがなく、どうやって皮を剥こうと二人で頭をひねった結果、部屋にあったプラスチック製のペーパーナイフで剥いてみることにする。なんとか剥けるけど、どうしても厚くなってしまって、果肉がもったいないと言っていたら、MKちゃんが薬のアルミシートを持ってきて剥きはじめた。これが不思議なぐらいきれいに剥けて、おおこれはすごいと盛り上がる。梨は野趣あふれる味がした。
次に訪れる予定の麗江という町から昆明に戻る便を予約しなければいけないので、香格里拉の「唯一の旅行会社」と歩き方に書いてある建物へ歩いていく。メインストリートを離れると、まだ舗装もされていない砂利の道が続いていて、途中には小学校もあった。高い建物は一つもない。 
旅行会社はコンクリート造りの3階建てぐらいの建物で、チベットのポスターやツアーの広告がたくさん貼ってあった。香格里拉チベットへ向かう旅行者が経由する町でもある。 
背の高いショートヘアの女性が、航空券の残席状況をとても親切に調べてくれて、若干空きがあるということだったが、中国東方航空のオフィスに行かなければ買えないという。お礼を言って旅行会社を出て、メインストリートと並行して走っている道にある大きなホテルを目指して歩く。この道は幅が広いわりに何もない。 
目指したホテルは一度行き過ぎてしまったが、道行く人に確認してなんとかたどり着く。航空会社のオフィスはホテルの中にあるのかと思ったら、別の入り口があった。 
私は24日の朝の便に乗ることにして、空席があったのでその場ですぐに買うことができたが、MKちゃんは1日早く昆明に戻る予定で、その日には空席がなく、とりあえず別の日に予約を入れておいて23日の便をキャンセル待ちにしたい、という旨を一生懸命伝えようとしていたら、漢民族ではなさそうな風貌の、英語が話せる男性が通訳してくれて希望通りに手配してもらえたようだった。彼は帰りがけに「もう大丈夫かな?僕は帰るけど」とわざわざ私たちに声をかけてくれた。 
一度宿に戻ってから、松賛林寺という有名なお寺に行ってみることにする。フロントの女性に行き方を訊いたら、3路(3番)のバスの終点だという。バスは路線ごとに車体の色が塗り分けられているので間違わない。3路は緑色だったか、水色だったか。 
松賛林寺に向かう途中に、空がとても近いのを見る。町を離れると高山地帯であることを感じさせる草原が広がっていて、かなたに見えるさらに高い山のふもとに松賛林寺があった。 
参道というのか、寺へと伸びる道には土産物や工芸品を売る小さな店が並んでいる。寺の入り口から境内まではずっと階段だ。大人がみんなひいこら言いながら一段一段上がっているのが上のほうに見えた。私たちも上り始めたが案の定息が切れて足が重い。階段は二百段ほどあっただろうか。上りきったところには、民族衣装を着て観光客に写真を撮らせ、金を要求する子供らが何人か群れていた。白人の観光客がその子たちにつかまっているうちに脇をすり抜けて本堂へ向かう。 
本堂の屋根には、真っ黄色の装飾がついていて、絵具の青色をしている空とのコントラストで目が痛いほどだった。お坊さんは橙色の袈裟を着てブラブラしている。お堂の中に入るとすぐ壁画があったが、最近ペンキで描いたようにも見えてありがたいのかどうかわからなかった。二階に上がると、回廊に金属の筒がたくさん並んでいて、団体旅行者についていたガイドの話を盗み聞きしたところによるとその金属の筒を一度回すと一度お経を唱えたことになるという都合のいい設備であった。 
黄色い装飾のある屋上にも上ることができたが、天窓のガラスが外れかかっていたり、箒が打ち捨てられていたりとむしろすさんだ屋上で、見ないほうがよかったかもしれない。
この寺ではちょうど映画だかドラマだかの撮影が行われていて、坊さんたちが興味津々で撮影現場に近づき、ADみたいな人にあっちに行ってくださいとたしなめられたりしていた。 
本堂から少し階段を下りたところにもう一つ小さなお堂があり、入り口から覗いたら椅子に腰掛けた年老いた坊さんが「いらっしゃい」と手招きしてくれたので中に入ってみた。本堂のほうではお賽銭を入れるようなところも見当たらなかったが、こっちにはあったので、小銭を入れておく。このお堂の外では、ゲイのカップルらしき白人の二人組が四・五人の小坊主に囲まれて写真を撮っていてほほえましかった。 

このあたりには寺以外に見るものもないので、来たときと同じ3路のバスに乗って町に戻る。本屋やレコード屋でVCDやCDを見たり、スーパーを冷やかしたりしているうちに夕方になり、寒くなってきたので一度宿に戻った。 
夕飯はTibet Cafeというレストランに食べに行く。ゲストハウスに併設されているカフェテリアのようなところだった。チベットに行くか、チベットから帰ってきた旅行者が多いようだった。みんなシュラフをかついで山登りルックだった。 
レストランの客なのか宿の客なのかはわからなかったが、白人の女性旅行者が「ここでカメラをなくしたか盗まれた」と言って入ってきて、店員さんが探したが出てこないので、警察を呼んだりしてバタバタしていてなかなか注文できなかったが、やっとのことで頼んだ山羊肉と湯葉の入った鍋はおいしかった。 
私たちはずっとダイアモックスという高山病対策の薬を飲んでいたので、MKちゃんはアルコール禁止だと思っていたらしいが、処方時にそんな指示はなかったよ、と言ったら張り切ってビールを飲んでいた。
また満天の星を見ながら宿に帰って寝た。

雲南旅行 4日目

■10/18 
朝9時にきのうの楊さんと駅前で待ち合わせていたが、私たちは5分ぐらい遅刻してしまった。私たちが挨拶すると楊さんはちょっと咎めるような目をしていた。怒っているのかなと思ったけど、どうやら照れているらしいとわかって安心する。 
西山行きのバス停までの10分弱の道のりを、彼はどんどん先に歩いていき、私たちは彼を見失わないようにするのが精一杯だった。 
バス停が並ぶ大通りに着くと、彼はあたりでバスを待っている人たちに行き先を確認して、ここで待てと身振りで示すと、ヘッドフォンで音楽を聴きはじめた。 
私たちの乗るバスが来たようなので、運賃はいくらですか?と言うと「いい、いい」というしぐさをして、乗り込むときに三人分払ってくれた。一人2元ぐらいだったと思う。払おうとしても受け取ってくれないので、あきらめる。 
バスは通勤客と思われる乗客で満員で、楊さんはわたしの荷物を指して「小心、シャオトウ」と耳打ちした。泥棒に気をつけて、ということなんだな、と思ったので、「泥棒に気をつけてだって」とMKちゃんに伝えた。 
昆明の町はずれは道路わきに廃材のような黒いかたまりがずっと積まれていた。上にハイウェイが走っているのか、暗く、ゴミゴミしていて、不思議な場所だった。 
バスは20分ほど走ると郊外に入り、工場がたくさん並んでいるのが見える。乗客の大半がそのあたりで降りていった。 
昆明市街を出てからは、特に道を曲がったりしたような覚えもないが、1時間弱で終点の西山に着いた。公園という名前なので公園だろうと思っていたが、山だった。お互い言葉が通じないので、ずんずん歩く彼の後についていくうち、山に登ることになったようだった。山はこの公園の目玉なのかどうかわからなかったが、反対する理由も思いつかなかった。 
山道は舗装されておらず、スタート地点がもともと標高の高い場所なので息を切らしながら登っていく。彼は地元の人なのでひょいひょいと先に行ってしまい、ちょっと休みたいと言いに行くのにもまずは彼に追いつかなくてはならず、休むために走るという本末転倒な行動を何度も強いられた。 
筆談用に持っていたノートに、ここは標高が高くて空気がうすい、私たちはつらいです、という内容を漢字で書いて見せると、わかったとうなずいたのでそのへんの石に腰掛けていると、中国語で何か言ってきたので「わからないから、書いてください」とノートを渡すと、「いい、いい」と言って携帯電話を取り出して、「地面に座ると病気がうつる」というような内容を打ち込んだ画面を見せられた。そんな話聞いたことないけど、そう言われるとそんな気もするし、中国では一般的にそう言われてるんだろうな、と思ったので立って休むことにした。 
山道の途中にはとうもろこしを焼いて売っている人や、生肉を売っている人などがおり、この人たちはここに住んでいるのか、それともわざわざここまで商品を運んできて売っているのかは分からなかったけど、なぜか生肉はよく売れているようだった。 
楊さんは最初こそ口数が少なかったものの、しばらくすると色々と世話を焼いてくれ、下り坂で手を貸してくれたり、道を聞きに行ってくれたり、完璧なガイドだったが、「わからないから書いてくれ」と頼むのだけはダメで、何度も繰り返し中国語で言ってきて、それでも私たちがわからないようだと、携帯電話に打ち込んで見せてくる。友達にメールでもしているのかと思って日本語でしゃべっていると、私たちに伝える内容だったりするので油断できない。 
筆談してくれないのは字が汚いかららしいのだが(絵は描いてくれる)、日本の家はどんな家かという話をしているときに珍しく「日本的家」と書いて見せてきたので、それを見てMKちゃんが「あなたの字は汚くないですよ、問題ないですよ」と書いたら「いや、ダメだ」と言われてしまった。 
山道では、たべられる木の実を取って私たちにくれたり、道ばたに落ちている棒を拾って振り回したりしている。よく見ると頬には幼い頃にした傷が残っているので、私たちは彼を野生児と呼ぶことに決めた。高校生のように見えるが歳は23だ。 
山はどこが頂上なのかわからないうちに下り坂となり、どこから仕入れてきたのか「湖を渡るロープウェーがある」と野生児が言うので、その乗り場を目指して山を下りることにする。 
野生児が途中で色々な人に道を聞いてくれたのだが、結局迷い、草むらのようなところで行き詰まってしまった。私たちを草の中に残して野生児は道を聞きに行ってしまい、30分ぐらい待たされて心細くてたまらなかった。見たことのない雑草がはえていた。 
その草むらを出てからは順調に山を下りることができ、目指していた竜門(ロープウェーの乗り場)にもたどり着けたが、料金が高いので、乗るのをやめて階段でふもとに下りる。山を下りたところに馬車がいて、野生児がお金を払って私たちを乗せてくれた。私たちをロープウェーに乗せられなかったので、その代わりなんだろうなと思った。彼は手綱をひくおじさんにたばこを勧めて、自分も吸っていた。馬車はゆっくりと湖にかかる橋をわたり、日が傾きかけたころに対岸の町へ着いた。昼食をとっていなかったが、おなかはすいていなかった。 
湖の周りを三人で散歩してとても気持ちがいい。湖は静かで明るく、美しかった。野生児は野生児らしく釣りが趣味だと言っていた。日本のCDを聴いているというので見せてもらったが私たちは知らなかった。 
湖から少し歩いたところに小さな町があり、そこから昆明行きのバスが出ているらしい。湖からバス停まで歩く途中にも、服につくトゲトゲの草を取って私たちの服に投げつけてきたり、花を取ってくれたりした。 
バス停に着くとバスはもう来ていて、すぐに乗ることができた。バスの中で住所を聞いたら、手帳に貼り付けてあったIDカードのコピーを引きはがして私にくれた。私たちは今日のお礼で、夕食をおごらせてほしいと頼んだけど、それに対する返事はなかった。 
バスが昆明に着くと、野生児が家に夕飯を食べに来ないかと言うので、ここまでお世話になったついでだと思い、行くことにする。昆明駅のそばにご両親と住んでいるというので駅に向かって歩いていると、私たちがお茶を買いたいと話したことを思い出したらしく、お茶屋さんに寄ってくれる。半額ぐらいに値切ってくれ、試飲のお茶も何杯も出してもらった。たくさん買うと安くなるようだったので、私たちは二人分まとめて買った。 
楊一家は駅裏の鳥カゴのような団地に住んでいて、野生児はやっぱりひとりっ子だった。犬と大きな白い猫がいたが、日本と違ってペットは飼い主と一定の距離を置いて飼うものらしく、足蹴にされていてかわいそうな気がした。 
お母さんはおとなしく、トゲのない感じの人だった。夕飯を食べる頃になってお父さんが帰ってきた。お父さんも警察官らしく制服を着ていた。 
夕飯にはおかずを沢山出してもらった。じゃがいもの炒め物とトマトと卵の炒め物がとてもおいしかった。お父さんは上機嫌だった。「少ししか食べないから小さいんだ、もっと食べろ」と言われたので、もっと食べた。 
3対2になると筆談もしていられないので、何か訊かれたら、頷くか、インチキ中国語で答えた。中国語が話せなくてごめんなさい、と書いて見せたら、なに言ってんの、という感じで笑われた。 
この日の夜の便で香格里拉に行くことになっていたので、7時ごろおいとまする。お母さんが梨をくれた。 
もうあまり時間がなかった。野生児が空港まで送ってくれるというので、駅前でタクシーを拾って、いちど茶花賓館に寄って荷物を取り、そのまま空港へ向かった。間に合いそうになかったけど、地元の人がいたおかげか、タクシーが飛ばしてくれたので間に合った。タクシーの中で、二人でお礼の手紙を殴り書きした。 
空港では野生児が私たち二人分の荷物を持ってチェックインカウンターを探してくれた。
搭乗ゲートに入る直前に、手紙と、タクシー代として50元札を渡したのだけど、お金は怒って突き返されてしまった。後で、「あれは余計なことをしてしまったね」と話した。

香格里拉の空港に着いたのは夜10時ごろで、中心部までタクシーに乗ったら夜空に信じられないほど星が出ているのが見えた。 
香格里拉の町は小さく、メインストリートが1本で、その通り沿いにほとんどの宿がある。夜なので寒かった。 
雪蓮飯店という宿に行ったら満室だったので、その斜め向かいにある並格賓館に行く。二人で120元と言われ、歩き方に乗っている料金よりも安かったのでここに決める。部屋は安普請だけどきれいで、バスルームはヨーロッパのホテルみたいだった。 
お風呂からあがったら、テレビで革命現代京劇をやっていて、あまりの面白さに夜中の1時すぎまで見てしまう。さすがに疲れているので最後までは見られなかった。「智取威虎山」というタイトルを控えて寝る。